道徳教育に関する私見

 このブログは、京都の行政書士が、平日は主に業務関連について、休日には京都や趣味のこと綴っています。

 今日は、ニュースに関する私見について書きたいと思います。

 東北大震災が起こったとき、宮城県南三陸町で防災無線放送を続けた女性ことが、埼玉県で道徳の教科書に掲載されることになったそうで、その是非につき色々な議論が出ています。

 私は、このような議論が起こる題材を道徳の教科書に取り上げることは悪くないと考えます。
 そもそも、道徳教育とは、善悪の区別やその方法を教えるものではないはずです。自分なりに考え、自分なりに答えを見つけ、それを自分の言葉で表現する。それが道徳教育ではないかと私は思います。
 ですので、これが教科書の題材とされること自体についてさえ是非が問われるのであれば、それも含めて道徳教育として向き合えばいいのではないでしょうか。

 日本語では『教育する』と訳される『educate』の語源は、「引き出す」という意味にあるそうですね。
 大切なことは、題材を使って何かを教えることではなく、子ども達から何を引き出すかではないかと思います。

 新しい設備を導入していれば、命懸けで放送を続ける必要がなかった、という意見を読みました。それはもっともなことです。それは、観点は違えこそすれ、意味のある発言です。教育において、一つの題材は、様々な形で発展させることができ、発展させればさせるほど、子どもの引き出しは増えていくはずです。そして、道徳の授業であれば、指導者の関わり方によっては、議論の発展を促すことが可能だと私は思います。

 しっかりと自己主張するためには、よく考え、よく知っていることが大切です。『知る』とは、知識の絶対量ではなく、本質へ通じる道を探し出す能力のことではないかと私は思います。

 最近の子ども達は…と一括りにしてはいけませんが、キャンプに行ってもマンガやテレビゲームを持ってくる子、海水浴場でDSをやっている子をざらに見かける時代になりました。今回議論になった題材により、子ども達がより深く考え、知るようになってほしい、そんな風に感じました。